遠州七不思議〜夜泣き石(未完成抜粋)

二 元亀三(一五七二)年春

 森は生命にあふれていた。陽の光に照らされた木々は新緑を輝かせ、草花は鼻につくような萌える匂いと鮮やかな色を周囲の空気ににじませていた。草むらに足を踏み入れると、一歩ごとに小さな虫たちが飛び散り、あるものは再び草むらに隠れ、あるものはそのまま空を飛んでいく。音八(おとはち)はそんな羽虫たちの動きを目で追いながら、手にした竿をゆっくりと左右に振った。
 「川の流れや空気の流れ、そして生命(いのち)の流れを身体全体で感じとりなさい」
 そう教えてくれたのは研屋の源五郎だった。小さな渓流の脇に腰を下ろし、音八は初めて源五郎に会ったときの情景を思い出していた。

 あれは二年前のやはり春だった。その日、音八はいつものように釣り竿と魚籠(びく)を手に菊川の秘密の釣り場を目指していた。十日ほど前、小滝の落ち込みに一尺はあろうかという岩魚(いわな)の魚影を確認してからというもの、毎日欠かさず同じ場所を攻めているのだがあれ以来岩魚は一度も姿を見せていない。扇屋のお咲は音八の見間違えだと言って笑うが、淵の底に白い筋が入った鰭(ひれ)が見えたのだ。確かにあれは尺岩魚だった。音八がそう自分に言い聞かせて小滝の前まで来たとき、その目にひとりの男の後ろ姿が映った。知らない男だった。

 男は細くしなやかな体つきで、肌の色も女のように白かった。渋柿色の作務衣に手拭いをかぶったその格好は、百姓というには整然としすぎている。奇妙なのは手にした釣り竿を絶えず左右に振っているその仕草だ。どうやら釣りをしているようなのだが、こんな釣り方を音八は知らない。よく見ると糸の先には羽虫のようなものが付いている。毛鉤(けばり)だった。その毛鉤を男はあたかも虫が飛ぶかのように操ってる。逆光の中に浮かび上がるその動きは、まるで舞を舞っているかのように軽やかで、音八は知らぬ間にその姿に見とれていた。

 やがて男の手がゆっくりと止まったかと思うと、次の瞬間、ごぼっという水音がおこり、男の釣り竿が弧を描いて小刻みに震えだした。音八が、「あっ、俺の獲物」と口にしたときには、すでに一尺を上回る岩魚が黄色い腹を見せて快晴の空を仰いでいた。そして、その岩魚を手にした男が振り返り、音八に微笑んだ。

 「やあ、これは君の獲物だったか」

 それが源五郎だった。

つづかず

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